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アメデオ・モディリアーニ

椅子に座るモディリアーニ

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani, 1884年-1920年)は、今日では、イタリア出身の画家彫刻家として知られている。

生涯編集

1884年7月12日深夜、アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは、自分の乗り物の下敷きになっている物をじっと眺めていた。それはついさっきまで生きていたらしかった。落ち窪んだは白く、先に三角の穴がふたつ開いたは高く、ぽかんと開いたの中は真っ黒で、周りに縁取りがついていた。この不思議な生き物の胸部を押しつぶした彼の乗り物は無残にもへこんでおり、さまざまの装置が飛び出してもはや使い物にならなかった。しばらく帰れそうにない。もうすぐ日が昇るが、紫外線は体に悪い。彼は死骸の足の裏に慎重に穴を開け、中身を全部吸い取って頭から被った。

そこはイタリアの港町だった。見るもの全てが彼を刺激した。透き通ったに浮かぶたくさんの小船。行き交う存在はみな異様だった。モディリアーニには、なぜ彼らがあんなにも長い首と胴体を有するのか分からなかった。彼らの目の中にはきれいな青い円が絶えずうごめいていて、彼の興味を大いにそそった。彼はこれらを記録しようと思った。

周囲にあるものをかき集め、小さな刃物を使って彼らの体の凹凸を細かく記録するうちに彼は作業に喜びを感じ始め、記録は瞬く間に膨大なものになった。しばらくすると、一人のが彼のコレクションを見にやってくるようになったが、彼は気にしなかった。ある日男は彼に手を差し出すと、口を半月形に広げて目を細め、作業中にもかかわらず彼を車に乗せてある施設に連れて行った。そこではたくさんの人々が彼のように記録を行っていたが、その方法は多種多様だった。何年かなんとなくそこに通ったあと、出て行くよう言われたモディリアーニは、1906年、コレクションをイタリアに残したままフランスパリに発った。施設にいた一人に教わったのだった。そこへ行けば彼の仲間に会い、乗り物を提供してもらえるかもしれなかった。かすかな希望を抱きつつ、彼は新たな地で記録を続けた。

 
ポール・ギヨーム
 
君こそピカソだ

記録の際に出る多量の粉塵にむせつつひたすら作業する日々が続き、ある日彼は血を吐いた。最初に肺をつぶしてしまったのがいけなかった。帰る前に死んでは元も子もない。彼は新しい方法で記録を始めた。コストはかかるものの、以前と異なり、対象の色を克明に再現できるのだった。12、3枚記録をし終えたころ、裕福そうな身なりをした男が彼の前に現れ、お前の絵を高く売ってやる、という意味のことを言った。男はギヨームと名乗り、彼を無理やりいろいろなところへ連れて行った。モディリアーニは行く先々で多くの人と出会った。角砂糖の袋を抱えた貧弱な青年詩人やたら名前の長い男性格のねじけたアル中の風景画家いやみなど、今日では高く評価されている人物ばかりであったが、彼は特に気にしなかった。自分がせっかくつけた記録が他人の手に渡るのを嫌がったモディリアーニだったが、ギヨームが見返りとして彼に渡した琥珀色の液体を飲むと胸がすっとして咳が止まることに気づき、しばらく彼の言うとおりにすることにした。しかし結局は1916年に、ギヨームが余りにしつこく彼をいろいろな集まりに誘うため、彼の元を離れ、別のブローカーと契約を交わす。仕上げた記録を渡して見返りにを手に入れることを繰り返すうち、モディリアーニはその副作用に悩まされるようになってゆく。

1414年のことだった。ベアトリスと名乗り彼のところにいきなりやってきたは、記録の対象となることを自ら望み、承諾の言葉を彼が口にするやいなや衣服をとり、記録を始めるよう促した。今まで自分の周りにいた人間達とは全く違う構造をしていることに彼は驚き、かつてないほど興味を引かれた。胸部に二つの脂肪の塊を有し、その下をたどっていった先にはひげが生えていた。彼はこのときからこの変わった生き物の魅力に取り付かれ、その記録をとることへの情熱は生涯続いた。1917年、彼はブローカーからこれまでの記録の一般公開を提案され、しぶしぶ実行したが、初日にトラブルが起こり、彼の女に関する記録が全て撤去された。モディリアーニはこの対応を疑問に思ったものの、記録が予定より早く自分のところに戻ってきて好都合だったため、あまり気にしないことに決めた。

 
妻ジャンヌ
 
ある日彼女は夫の手をとり、目の中に無理やり青い円を描かせた。

1718年、モディリアーニは、過去に記録したことのあるジャンヌ・エビュテルヌを妻とした。帰れる可能性が低くなり、生きているうちに子孫を残す必要に迫られてのことではあったが、妙に気の強そうなこの女に特別興味を引かれ、複数の記録を残したいと思ったのも事実だった。またジャンヌは彼と同じように記録をとっていたため、彼の活動に理解を示した数少ない存在であった。妻となってからのジャンヌは以前より積極的に観察を許し、加えて、社会における常識に疎い彼をサポートした。「」の書き方もこのころ覚えた。彼はジャンヌに助けられ、以前よりも精力的に記録作業に取り組んだ。同じ年に生まれた子供をモディリアーニはジャンヌと名づけた。他の可能性は彼には考えられなかった。

彼の毛皮は、35年の月日を経てだいぶくたびれてきた。つぶれた肺とうまくつきあうのももうそろそろ限界だった。1920年1月24日、毛皮を脱ぐ決心をしたモディリアーニは、自室に篭もった。ジャンヌは毛皮を脱いだ自分を夫と認めてくれるだろうかという不安が一瞬彼の頭をよぎったが、思い直して一気に脱いだ。とたん、パリのうららかな陽射しがむき出しの体に降り注ぎ、紫外線があっという間に彼を消し去ってしまった。弱点をすっかり忘れていたのであった。

彼の抜け殻を発見したジャンヌはショックに耐え切れず、ついに数日後飛び降り自殺した。モディリアーニにとっての3人目のジャンヌを妊娠中であった。モディリアーニの死後その記録は芸術として多くの人々から高く評価され、生前の何倍もの値がついたが、そんなことはモディリアーニにしてもジャンヌにしても、知ったことではなかった。アメデオ・クレメンテ・モディリアーニはついに生きて故郷に帰ることは出来なかった。彼の唯一の子孫である娘のジャンヌは政府の援助の元ゴッホの研究中にインフルエンザに感染するも、研究を続けるかたわら父の悪口を書き続け、1984年に亡くなった。

関連項目編集

  • エコール・ド・パリ…20世紀前半のパリに集った暇人たちの総称。モディリアーニも今日ではこの一人といわれているが、彼の知ったことではない。
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