メインメニューを開く

Uncyclopedia β

アンリ・ルソー

お前じゃない

アンリ・ルソー(Henri Rousseau、1844年 - 1910年)は、自分が素晴らしい画家であることを知っていた。

目次

ルソーによるルソー編集

私は絵のうまい子供で、音楽の才能もありました。[1]にもかかわらず無理解な親によって軍隊に入れられました[2]が、そこで忘れがたい経験をしたのです。軍楽隊の一員として、メキシコに遠征した[3]時のことです。私たちは太古の森へと分け入りました。鬱蒼と茂るバナナマンゴーの木の上で、奇怪な猿たちが跳びはねていました。草はみな太くみずみずしく、信じられないくらい大きな、鮮やかな花があちこちに咲いていました。ライオンピューマも見ました。ああいう猛獣の手にかかると、たいていの人間はひと声も出せずに殺されてしまうものです。そんな中を勇猛果敢に進んでいったのです。私はやがて軍曹[4]として普仏戦争に参加し、華々しい戦績を残して軍隊を去りました。

そのあとパリの税関に32年勤めました。仕事は大変でした。最初は衛兵だったのですが、ずっと立っていると本当に体力を消耗しますし、夜になるとお化けが出ますでしょう。あいつらがあっちこっち飛んで私をバカにするのにはまったく辟易しました[5]。そのうち親切な上司が、私が絵を描いているのを知って、専念できるようにと楽な部署に回してくれるようになりました[6]

退職後、もう50歳近くなってからのことですが、私はジェローム、クレマン、ボナら大家の激励を受けて[7]制作に励み、成功を収めました。いくつもの作品が新聞で取り上げられました[8]。そのときの切り抜きは全部とってあります。官展に入選したこともあります[9]。市役所のコンクールにも何度か出しましたが、銀メダルを三つと、選外佳作賞をもらいました。展覧会に出すと、私の絵を大勢がこぞって見に来ると聞きます。嬉しいことです[10]。最近は画商たちも私の作品を喜んで引き取ってくれます[11]。たまには値段をつけてくれてもいいのですがね[12]

お上による注釈編集

  1. ^ それ以外の科目の成績はひどいものだった。
  2. ^ 何らかの事情により、故郷に居づらくなって志願兵となった。
  3. ^ メキシコ遠征どころか、生涯を通じてフランス国外に出た記録さえない。
  4. ^ 軍隊にいたときはずっと二等兵のままだったし、「母親の世話をしないと」と言ってすぐ除隊している。
  5. ^ ルソーの同僚が彼をからかうために度々トラップを仕込んで遊んでいたのと、あとはおそらく彼自身の……。
  6. ^ 職場ではとにかく使いものにならなかったらしい。
  7. ^ 当時の権威といえるような画家たちだが、クレマン以外は会ったこともないはずである。
  8. ^ 内容としては酷評や嘲笑がほとんどだったが、ルソーは自分の名前が載っている記事を多数保存していた。
  9. ^ 官展に入選したことはなく、出展するにあたって審査のない「アンデパンダン展」の常連だった。
  10. ^ ルソーの絵は一般の人々に本当に人気があった。腹を抱えて笑えたので。
  11. ^ 彼らの多くは、無料で引き取ったルソーの絵を薬品で洗ってカンバスを再利用していた。
  12. ^ ルソーは役人だった時も決して裕福ではなかったし、絵に専念し出してからは借金を重ね、さらに貧窮するようになり、最後は共同墓地に葬られた。後に友人たちの手でまともな墓に移してもらった。

ルソーの掟編集

たとえばピカソの絵を見に行って、彼が初期によく描いていた容姿端麗なアルルカンの絵しかなかったら、「俺はキュビズムの絵を見たかったのに」と落胆する人もいるかもしれない。大抵の画家の作品には、様々な理由から画風の変化がある。その点ルソーの絵は最初から最後までルソーの絵だ。まったく独自の画風を確立して、それを変えられなかった。ルソーの絵には、彼だけにしか理解できない厳格な掟があった。

  • 見たものを描く。…ルソーの絵は幻想的だとよく言われるが、見ないで書いたものは一つとしてない。パリや田舎町の風景を写生したらあのようになったのである。メキシコの原始林も、子供用の猛獣図鑑や植物図鑑をよく見て描いたものだ。
 
『セーヴル橋の眺め』
  • 画面の中に全部あるようにする。…絵の中にひととおりのものがそろっていないと、いざその中で生活するとなったときに不便なので、気をつけて描いた。草は一本ずつ、葉っぱは一枚ずつ描いたし、その全部に葉脈を描くのも忘れなかった。兵隊には銃を、詩人には紙とペンを必ず持たせた。顔を描くときは、目鼻口全部のパーツが描けるように、真正面から描くことを好んだ。
  • 好きなものは大きく、はっきりと描く。…好きなものはしっかり描くべきである。この牛を見よ。
     
    素晴らしいことに、この絵は日本の大原美術館で見ることができる。


  • その他…作品に説明を兼ねた詩をつける、子供を必要以上に可愛く描かない、など

この掟を守った結果、当時の市民からは「ヘタな絵」と評価されたわけだが、そう思わない者たちもいた。

「ルソーを讃える夕べ」までの道のり編集

 

1894年、第10回アンデパンダン展の会場では、人々がお上手な先生方の作品そっちのけでルソーの『戦争』の前に群がり、指さして笑い転げていた。その中に一人、畏敬の眼差しで絵に見入っていた男がいた。ポール・ゴーギャンである。「この黒は天才的だ」彼はつぶやいた。

詩人のアルフレッド・ジャリは、ある夜会で出会った同業者のギヨーム・アポリネールに言った。「面白いオッサンが居るんだけど、会ってみないか。同郷のよしみで今泊めてもらってるんだが、すごく良い奴だし、絵を描くんだ」数日後にはルソーとアポリネールはビール片手に談笑していた。アポリネールが女友達の画家マリー・ローランサンと一緒に絵のモデルになったことがあるが、『詩人に霊感を与えるミューズ』と題されたその作品はいつものように酷評され、アポリネールは反論した。「似てない似てないと批評家連中は言うが、モデルである俺自身が似てると思うんだからこれは似てるんだよ。ルソーは人物を似せて描くために細心の注意を払うんだ。目鼻の寸法を定規で測るし、肌色がうまく作れているか見るために、マリーの顔にじかに塗って確かめたんだぞ!」

ちなみに、最初ルソーは詩人の足元にカーネーションを描きたかったのだが、図鑑のページを間違えたのか、ニオイアラセイトウを描いてしまった。そのため、もう一度新しいカンバスに描き直した。二枚とも現存している。で、見比べるとすぐ分かることだが、一枚目と二枚目とで、顔がかなり違っている。

 

1907年、ルソーは手形詐欺事件に巻き込まれて逮捕される。彼は若い友人に言われるままにやったと主張したが、それにしてもかなり深くかかわっていた(偽名を使って書類の偽造もしていた)ため、本当に自覚なしにやったのか疑わしいとされたが、弁護士の次の言葉により、執行猶予つきのごく軽い判決を受ける。

「彼は単純な男ですよ。小切手が出来る以前の世界を生きています。原始人を有罪にしていいと思いますか?

仮釈放の知らせを受けたルソーは、恋人に電話をかけたいと言ったが、電話機の使い方を知らず、弁護士が代わりにかけてやって受話器を渡すと、建物じゅうにきこえるような大声で話した。注意されると彼は言った。

「大声を出さないと、遠くにいる恋人には聞こえないじゃありませんか」こうして弁護士の主張は裏付けられた。

1908年。パブロ・ピカソは、古道具屋にてタダ同然で売られている女の肖像画を見つけて購入した。彼はその絵をいたく気に入り、作者を夜会に招くことを思い立った。こうしてルソーがピカソのアトリエを訪れることとなった。アポリネールら親しい友人のほか、ピカソのパトロンであるガートルード・スタインなどがルソーを歓迎した。スペイン料理を振る舞われ、自らを讃える詩の朗読を聴いたルソーはいい気分でヴァイオリンを演奏し、飲みすぎて真っ先に酔いつぶれた。後日、彼はアポリネールに尋ねた。

「ピカソ氏はじつに親切な人だが、なぜあんなメチャクチャな絵を描くんだろうね?」

関連しない項目編集

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「アンリ・ルソー」の項目を執筆しています。