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出典: 八百科事典アンサイクロペディア(大丈夫、本当の項目名はクロワッサンだから。君は間違っていないよ。

黒輪傘(くろわっさん、仏語 Croissant)とは三日月形に作るオーストリアのパン。フランスでの生産が盛んである。基本的に「クロワッサン」とカタカナで表記される。しかしこれは誤りである。なぜなら、クロワッサンの起源は日本人によるものだからだ

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「クロワッサン」の項目を執筆しています。

目次

そもそもの始まり編集

そもそもの黒輪傘の起源は、江戸時代の初期に実施されていた朱印船貿易に事を発する。この頃の一部の日本人は江戸幕府から朱印状なる許可証をもらい、東南アジアとの貿易を行い、多大なる利益を上げていた。しかし1635年、すべての日本人の海外渡航と帰国を禁止する第3次鎖国令が発令され朱印船貿易は終末を迎えることとなった。

この頃、貿易先のタイのアユタヤ王朝にある男がいた。彼の苗字は黒輪という。彼については出身の商人であることは文献から明らかであるが、名前や年齢など詳しいことは明らかになっていない。しかし売り物のひとつに日本の傘があったことは明らかになっている。彼は江戸幕府から出た鎖国令を知っていたが、台風などで船が難破し、帰ろうとしてもうまく帰れずにいた。おまけに難破した際に船が大破し、船に積んでいた財産のほとんどを失ってしまった。

普通の人間であれば、ここで絶望してしまうことだろうが、彼はそうではなかった。

彼にはある特技があった。文献によれば、彼は唐傘を竹とんぼを飛ばすようにして高速回転させ、その傘につかまって宙に浮くことができたという。船が難破してほとんどの財産を失った彼は、この特技で空を飛び、季節風に乗って日本に帰ろうと考えた。彼は苦しい修行に修行を何年も重ね、ついに傘で自在に空を飛ぶことができるようになった。

そして黒輪は日本に帰ろうとしたが、東南アジアから日本へ行く季節風が存在しないことに気づき、この計画は頓挫するかと思われた。しかし大航海時代で世界周航が達成され、地球が一周できることが証明されていた。この知識を知り合いの西洋商人から聞いた彼は、東南アジアから日本に向かうのではなく、東南アジアからトルコを経てヨーロッパに渡り、大西洋を横断し、アメリカ大陸から日本に向かうことを決意。彼はまずトルコを目指すことにした。

ちなみに、彼の傘を使った飛行方法は黒輪傘飛行法とよばれている。

アフガニスタンとトルコ上陸編集

黒輪氏は中央アジアを経て、オスマン帝国にたどり着くことに成功した。また、オスマン帝国にたどり着く前に経由したムガル帝国アフガニスタンにおいて、アフガン航空相撲の力士たちと交流しており、ここにおいて、空から攻撃することの重要性を実感する。そして、アフガン航空相撲で学んだことを黒輪傘飛行法に生かし、黒輪傘飛行法を黒輪傘飛行武闘術に進化させることに成功する。

この頃のオスマン帝国は、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、急速に動揺が広がり始めていた。

そのような情勢の下で1645年に起こったヴェネツィア共和国との戦争において、黒輪氏は傭兵として戦争に参加。黒輪氏は空中から爆弾を落とすなどの、当時では攻略の困難な方法で戦争に貢献する。しかし、1656年、黒輪氏が強すぎたせいでヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰しはじめる。結果として首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。この建て直しにおいても、黒輪氏は反乱の鎮圧などに貢献している。

この頃の黒輪氏は先のヴェネツィアとの戦争の功績において爵位を得ており、傭兵のような身分ではなかった。彼はオスマン帝国における躍進で莫大な財産を手にしていた。これによって、船を建造し日本に帰るのも可能であったとされる。しかしここにおいて彼はすでに求道者となっていた。「人は傘でどこまで行けるのか!!」かれはその財産から、最高の鋼鉄の飛行傘を作り出すことに成功する。その傘には彼の家紋である三日月が金箔の装飾によって施された。そして、彼の見る果てしなく遠大な夢を追い続けるため、オスマン帝国を出奔することを決意する。当時のスルタンおよび大臣はこれを承認した。そして、長年の彼の功績をたたえ国旗を彼の家紋である三日月のマークに定めたのであった。

オーストリア上陸とウィーン包囲編集

黒輪氏が続いてたどり着いたのはオーストリアであった。この頃のオーストリアは三十年戦争の後であり、オーストリアを領有するハプスブルク家は軍隊の弱さを改善する打開案を求めていた。そんな中で、オスマン帝国の英雄である黒輪氏がオーストリアに訪れたことは、まさに渡りに船であった。ハプスブルク家は、彼をこぞってもてなし、軍事顧問への就任を依頼した。黒輪氏は、オーストリアに自分が学べることはないとわかっていたが依頼を引き受けることにしたとされる。この結果として、オーストリアには黒輪傘飛行武闘術の特殊部隊が作られた。彼らは、完璧に黒輪氏の教えを完全に習得することはできなかったが、戦力としては十分な実力を兼ね備えていた。後に彼らは第二次ウィーン包囲で活躍し、オスマン帝国を破ることに成功する。その結果がカルロヴィッツ条約の締結である。この条約においてオスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、またオーストリア三十年戦争以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得たのである。また、第二次ウィーン包囲の勝利の際に黒輪傘飛行武闘術のシンボルである三日月になぞらえたパンとして、クロワッサンが焼き上げられた。クロワッサンとは、絶望と真摯に向き合い厳しい困難に打ち勝って求道者になった漢によって誕生した神聖なる食物なのである。後にマリー・アントワネットがオーストリアから嫁いだ時にクロワッサンがフランスに伝えられた。

だが、この後のオーストリアにおいて黒輪傘飛行武闘術は未熟な後継者しかいないことが災いし衰退の道をたどっていくこととなる。もし完璧に黒輪傘飛行武闘術を会得できた者が存在すれば、ハプスブルク家の繁栄はおろか第一次世界大戦の結果すら変わっていたとする見解もある。

その後の黒輪氏編集

黒輪氏はウィーン包囲より先にオーストリアを旅立ち、フランススペインを経由し、アメリカに向かったとされる。ここからの彼に関する記述がある文献は存在しない。だが、彼はアメリカを経由してアジアまでたどり着いた明白な事実がある。日本語でクロワッサンを指す言葉として「三日月パン」いう呼称がある。これは黒輪氏が日本にたどり着いた証拠である。しかし、日本にある黒輪氏の伝承は極めて少ない。一説によると、黒輪氏は更なる高みを求めて、再び世界に旅立ったのだという。もしかしたら彼は今も道を求めて闘い続けているのかもしれない。

関連項目編集

参考文献編集

  • 民明書房刊 『東方からの使者~黒輪傘とオスマン帝国~』
  • 民明書房刊 『航空相撲とクロワッサン』
  • 民明書房刊 『ウィーンの奇跡~黒輪傘飛行武闘術導入の軌跡~』


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