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ニャホ・ニャホ=タマクロー

ニャホニャホタマクロー.jpg

ニャホ・ニャホ=タマクロー(Dr.Nyaho NyahoTamakloe、1942年5月7日 - )は、ガーナサッカー協会元会長。医者でもある。

目次

人物編集

1942年にガーナで生まれる。医者になるまでの経歴は一切不明であり、公の情報ではボールに触れたことすらないという話もある。

また、『ガーナの子供が憧れる人物ランキング』23年連続1位。と言われているがそもそも、ガーナにテレビが一般家庭に普及しているとは言い難く、その為、ガーナの子供に「憧れる人は?」と聞いても、「お父さん」「お母さん」「義理のお父さん」ぐらいしか言わないと思われる。このため、『ガーナの(ry』の信ぴょう性は低い。

プロフィール編集

猫人間であることからこの珍しい名前であると誤認されがちだが由来しているわけではなく、日本の猫人間・猫きよしは彼へ尊敬の思いをこめ「ひろし」と名乗っている。しかしガーナでは彼の功績を称え我が子にこの名前を名づける事を法律禁止しており破った者はガーナチョコ一生分を1日で食べさせる刑に処される。[1]

ガーナ時代では名門サッカークラブ、アクラ・ハーツ・オブ・オークの運営を任されその手腕を発揮したことで知られる。右肩上がりにその功績は評価され彼の存在が国民的に有名なった頃ついには日本の厚生労働大臣にあたるガーナサッカー協会会長への就任を打診される。

就任を承諾したニャホタマクローは積極的なサッカー構想改革をすすめた。ガーナではサッカーが普及し始めたばかりだったこともあり、頭部への打撃、マウントポジションからの追打撃などを禁止しており、現在においてのサッカーと比較しても退屈なスポーツであった。また医療技術が衰弱な為、一試合平均600人の死者がでていた。

エクストリームスポーツ愛好者であるニャホタマクローはサッカーをよりエキサイトなスポーツにする為、頭部への打撃、マウントポジションからの追打撃を認め、もともと医者でもある彼は自ら東洋医学を会得し一試合の平均死者を30人程に抑える事に成功する。この功績によりノーベル平和賞を打診されたがニャホタマクローは受賞を辞退している。しかしこの事でニャホタマクローの同国での評価は絶対的なものとなった。

来日そして、衰退編集

 
デビュー曲のジャケット

そのケタ外れの功績によりその知名度はガーナ国外にも広がり、彼の存在を知った日本のマスゴミフジテレビは番組『トリビアの泉』において彼を利用した金儲けをもくろみ、同番組への出演をオファーする。

当初出演を辞退していたニャホタマクローだったが多額のギャラに目がくらみ、出演を承諾する。さらに、彼の曲まで作られた。これで、生涯安泰と思われたがガーナサッカー協会の理事が、彼の正体について言及した為[2]、彼はガーナサッカー協会会長を辞職した。さらに、その1年後には彼の頼みの綱である「トリビアの泉」がヤラセ疑惑で終了してしまい、結局彼はただの医者として生きることとなった。

彼の今の状態はまさしく、「猫の手も借りたい」である。

編集

  1. ^ この刑をクリアしたのは当人だけである。
  2. ^ その正体が何物かはだれも知らない。


関連項目編集

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