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ボリス・ヴィアン

「この話は最初から最後まで俺の想像の産物だからこそ真実の物語になっていて、要するにそこがウリだ。」
小説『日々の泡』 について、ボリス・ヴィアン
どれか一つにしろ。

ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの小説家詩人コラムニスト劇作家画家翻訳家ジャズトランペット奏者・シャンソン歌手作詞家でおまけにエンジニアの資格も持っていたが、周りからは多分バカ変人だと思われていた。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ボリス・ヴィアン」の項目を執筆しています。

目次

ラッパ吹きから作家へ編集

パリ郊外の裕福な家に4兄妹の次男として生まれ、おちゃらけた生き方をから学んだ。有り余ると速いと大邸宅と倉庫にぎっしりのがあるのをいいことに家族そろって平日も休日も遊びまくっていたが、1929年に突如金融危機が起きて家が一気に没落した。仕方がないので、それまで住んでいた大邸宅を借家にして、狭い家でさらに馬鹿馬鹿しい遊戯にふけっていた。この能天気な血筋に加え、生来心臓が悪く、兄妹の中でも特に過保護に育てられたことが、ボリス・ヴィアンの三度の飯より悪ふざけを好む性格を形成していった。

そのうち戦争が始まったが、ボリスは気にしなかった。というかよく知らなかった。ジャズトランペットを吹いたり、ダンスを踊ったり、サプライズパーティーに出たり、ダジャレエロティックを考えたりするのに忙しかったからだ。当たり前のことだが、心臓疾患にジャズトランペットは自殺行為以外の何物でもない。

彼はパーティーでひっかけた女の子と二十歳で学生結婚し、中の下の成績で名門大学を卒業し、就職した。一応公務員だったとはいえ閑職で、アメリカデューク・エリントンにあこがれてラッパを吹き続け、ジャズ専門誌への寄稿も始めた。その延長で書き始めた長編小説の習作を出版社に試しに持ち込んでみたのは1944年、ついでにその原稿を受け取った社員というのがレーモン・クノーであった。変な奴らとの付き合いが始まった。

作家からコラムニストへ編集

「俺の仲間は皆スノッブ 俺たちゃ俗物 素敵なことよ」
「仲間」 について、自作のシャンソン『俺はスノッブ』より

持ち込んだ小説を気に入られ、新人賞への応募を勧められたボリスは、『日々の泡』と いう作品を新たに書いてクノーとその友人たちに見せた。実に変な話だった。病める少女の肺に蓮の花が咲き、『心臓抜き』や『カクテルピアノ(一曲弾くとカクテルが完成する)』等の聞いたこともない道具が登場し、ハツカネズミがしゃべった。そんな馬鹿な。……これがクノーの仲間には受けた。特に、嘔吐物に造詣の深い哲学者ジャン=ソオル・パルトルが心臓をブッ刺されて死ぬ場面でボーヴォワールは爆笑したという。ちなみに新人賞の審査員はクノーの他、アンドレ・マルローモーリス・ブランショアルベール・カミュジャン=ポール・サルトルなどあらゆる種類の物書きが…そう、お察しの通り、ボリスは知っていてわざとやった。

新人賞は逃した。クノーがボリスに票を入れたのはいいとして、なぜかサルトルも支持したにもかかわらず。ボリスは落選に怒り狂い、「窓から下にいるやつ(審査員)にしょんべんたれてやる」等と、のちの汚点にしかなり得ない罵詈雑言を書き散らした。彼の「詩」にはこういうのが非常に多い。本の出版を断られたとき、手厳しい批評にさらされたとき、訴訟に巻き込まれたとき、彼は「詩」を書いた。

サルトルはボリスを気に入り、自分たちの機関誌にコラムを書くよう依頼した。が、このコラムニストは嘘か冗談しか書かなかった。いや、あるいは本気だったのかもしれない。あるとき、雑誌の外観が陳腐なのを改善すべくアドバイスをした。「匂いの出る表紙を作る。ゲロ、焦げたパン、濡れた、夕立の後のワキガ

生涯にわたり、彼は政治哲学にいささかの関心も示さなかった。

ヴァーノン・サリバン編集

  注意: この章には未成年者の閲覧にふさわしくない記述・表現が含まれています。無論わざとです。

「追手を差し向けるつもりなら そいつらにこう云え  武器は持っていないから 撃とうと思えば撃てると」
「追手」 について、シャンソン『脱走兵』より

  1946年、小説の出版が遅れに遅れ、ボリスは暇を持て余して絵画や作曲に手を出し始めていた。彼の妻はにそろそろ愛想を尽かし始めていた。そんな折、彼の下にある依頼が舞い込んだ。

知り合いの出版業者、ジャン・ダリュアンからだった。カフェのテーブルに肘をついて言うことには、「頭の軽いパリの奴らでも読むような、最近はやりのドエロでバイオレンスで下品なアメリカのミステリーを探してきて翻訳してくれ」ボリスは応えた。「俺が書いた方が早いよ」とにかく彼は暇だった。それに、アメリカの、特にそういう類の本は一通り読んでいるという自負があった。なんてったってレイモンド・チャンドラーフランスで初めて翻訳したのだ。俺には最高に俗っぽいハードボイルドが書けるさ。

自作自演。完全に悪ふざけだった。10分の立ち話で大体のアイデアをまとめた。黒人白人に復讐する物語。作者の名前は友達に決めてもらった。『ヴァーノン・サリバン』に意味はない。ただなんとなくそれっぽいからだ。題名は彼の妻が足の指でつまみあげて決めた。

『墓に唾をかけろ』

これはいけるぜ、とボリスは思った。あとはサリバンを黒人の脱走兵という設定にして、フランスに逃げてきた彼からジャン・ダリュアンが原稿を手にするに至るまでのいきさつをそれっぽくでっち上げた。小説の内容もでっちあげだ。そもそもボリスはアメリカに行ったことがなかった。全てがフィーリングで決まった。こうしてヴァーノン・サリバン著、ボリス・ヴィアン訳の偽ハードボイルド小説『墓に唾をかけろ』が出来上がった。彼らは友人の物書きに批評や紹介文を書かせ、計画をより完璧にしようとした。

下品で暴力的な小説は話題になり、よく売れ、彼らのもくろみは成功したかに思われた。しかしここで思わぬ事態が発生する。妙に鼻の利くジャーナリストが、ボリス自身の文章とヴァーノン・サリバンのそれが似ていると気付いてしまう。そしてついに、グルになってそれらしい批評を書いていた仲間の一人がしくじって、渾身のおふざけはほぼ解明されてしまう。さらにまずいことに殺人事件が起きた。遺体のそばに彼らの本が置かれ、暴力描写の部分に線が引いてあったらしい。責任を取れとマスコミが騒ぎだす。どこかで聞いたような話であるが。やがてボリスは風俗を乱したとして法廷に引き出される。

彼としてはそこでネタばらしをしたくてしたくてたまらなかったのだが、マスコミにさらに書きたてられるのを嫌った妻と大勢の友人に説得され、もうほとんどばれているヴィアン=サリバンの図式を否定し続け、ついでに言わなくていいことをも言い続けた。「俺んちじゃポルノは特に隠してないから見たければ見られるんだが、それでも息子は『タンタンの冒険』の方が好きらしいぜ」こういう態度のおかげで訴訟は長引き、1953年の大赦まで何度も繰り返された。さすがにここへきて彼もうんざりしたらしく、執筆のペースはかなり落ちた。

さて、この小説、どれほどのものだったのか。騒がれたのは事実だが、内容自体は大したことなかったのでは?

ためしに、適当にページを開いてみる。

15,6歳の女の子たちで、尖った胸の上から、体にぴったりしたセーターを着ている。もちろん効果を知った上でわざとやっているのだ。それにソックス!緑と黄色の派手なソックスにローヒール。スカートの下からは膝小僧がポンと丸く飛び出ている。いつでも地面に座り込んで脚の間から白いパンティを覗かせている。まったくイカすぜ、あの娘達は。


俺はかがんで毛布を探すふりをし、起き上がる拍子にわざとカフスボタンを彼女のスカートに引っ掛けて膝まで上げてやった。こりゃすげえ足だ。


茂みの中を進んでいく、スターの卵みたいな顔の付いた、一糸まとわぬ彼女の子供子供したからd

おおっと危ねえ。後半のジェノサイドの部分はやめておこう。身が持たない。

劇作家からシャンソン歌手へ編集

ボリスは戯曲も書いた。彼にとっては何のことはなかったが、たいてい筋がなかった。登場人物はほとんどの場合全滅した。彼の演劇はまったく理解されず、現在も「不条理劇」とみなされている。

彼は文学で評価されることをあきらめた。そうだ、シャンソンがいい。曲が気に入れば使ってもらえるし、気に入られなかったら自分で歌えばいい。いつになるかわからない本の出版を待っているより手っ取り早いし、下らない批評家どもの酷評を聞くよりも気分がいい。この判断は正解だった。シャンソンは、彼が唯一生前に世間から広く認められた分野となった。特に『脱走兵』は反戦歌の秀作とされ、あちこちで流された。

ここからは余計なことを言わず、彼の美声に耳を傾けてもらうとしよう。なおラッパと同じく歌も心臓に良くない。当たり前だが。

脱走兵

俺はスノッブ

飲むぜ

苛めて、ジョニー!

次は他の歌手によるカヴァーで、「しゃっくりが止まらなくて死にそう」な歌。 しゃっくりロック

おまけ、『脱走兵』の日本語版を沢田研二でどうぞ。

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1959年6月23日、ボリス・ヴィアンは二番目の妻を家に残し(最初のとは結局うまくいかなかった)、映画版『墓に唾をかけろ』の試写会に出かけた。監督は彼ではない。いつものごとく、しくじったな、と思っていた。エンド・クレジットから自分の名前を消してほしかった。

映画が始まってすぐ彼は叫んだ。「これは俺の映画じゃない!」予想以上にひどかったのだ。死ぬほどつまらなかった。

そして、彼はその場で本当に死んだ。39歳だった。

生前理解されず、死後やっと評価される作家は多い。だがボリス・ヴィアンの文学は今でもあまり理解されているとは言い難い。彼は未来に生まれるべきだったという人もいる。彼の世界観が理解され、広く支持される未来に。だが、そんな時代は来るのだろうか。

来たらちょっと困る、というのが正直なところである。


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