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戦犯合祀問題

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「A級戦犯合祀問題」の項目を執筆しています。
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「平将門#評価の変遷」の項目を執筆しています。

戦犯合祀問題(せんぱんごうしもんだい)とは、平安時代に戦乱を引き起こした犯罪人・平将門が、神田明神に祭神として合祀されているという問題。

目次

事のはじまり編集

10世紀半ば、関東地方で反乱を起こした平将門は、各地の国府を次々と襲撃して手中に収め、ついには新皇を名乗るに至った。いわゆる平将門の乱である。何百年もの間、争いのない時代を過ごしてきた都の人々はこの騒乱に驚愕し、朝廷は平和を脅かす将門の軍勢を食い止めるべく、藤原秀郷らに追討を命じた。秀郷は、かねてから将門と争っていた平貞盛藤原為憲と協力し合い、ついに将門を討ち果たした。

反乱は鎮圧されたが、遠く関東で起こった戦は、都の人々に武士の恐怖を植え付けることとなった。この反乱の後、各地で武士が台頭し、その数世紀後には政治すらも彼らに乗っ取られ、さらには穢を理解しない彼らにより死刑が復活するなど、平和だった日本は血と暴力が支配する世界に変わってしまった。その契機を作った将門は、これ以降の源平合戦や戦国時代を含めたすべての戦乱に対し責任を負うものとされ、反戦平和・死刑反対の左翼主義に染まっていた公家の人々により、「平和に対する罪」を犯した極悪人と認識された。ちなみ彼らは死刑反対であったのだが、将門がその場で射殺された件については「裁判で死刑になったわけじゃないし、というかウチら関係ねーし」とスルーを決め込んでいる。本当に都合のいい人たちである。

問題の発覚編集

時は流れて明治時代。1874年(明治7年)、明治天皇が東京の神田明神に参拝しようとしたところ、神社に将門の霊が合祀されていることが判明し、大問題となった。調査の結果、関東地方に跋扈していた右翼勢力が、都の人間の知らないところで、こっそりと将門の霊をを合祀していたことが分かった。これを聞いた明治天皇は「東えびすには平和への想いというものが無いのか。こんな場所に都を構えるなど、苦痛以外の何者でもない。この国際交流の時代に、こんな野蛮人を祭り上げているとは、本当に、日本人として恥ずかしい。」と露骨に不快感を示したという。さらに、京都出身の公家の多くが、「将門を崇拝している暴力団と我々が混同されるようなことになれば、一生の恥である」と主張した。そのため、将門の霊はすぐに神田明神から除かれた。ちなみに江戸時代、公家側が、幕府からの上納金に目がくらみ「将門とかもう昔のことだし、この辺で手打ちにしようや」と発言した記録がしっかり残っているが、やっぱりスルーを決め込んでいる。本当に都合のいい人たちである。

再合祀編集

その後、この件は人々からすっかり忘れられていたが、昭和の終わり頃に何者かによって再び合祀された。この件について、昭和天皇は何もコメントしていないが、一部の左翼勢力や日教組などは、「平和に対する罪」を犯した平将門の霊が勝手に合祀されたことに猛反発しており、彼らは毎年のように、朝廷が将門調伏のための儀式を行った成田山新勝寺や、藤原秀郷の霊が祀られている栃木の唐沢山神社に集合しては、「将門を追放しろ〜!」という奇声をあげて抗議の運動を行っている。とりわけ毎年正月の新勝寺には多くの左翼団体が押し寄せるため、警察の監視の対象となっており、警察は毎年その人数を公表している。

関連項目編集