米津玄師

米津玄師

米津玄師(よねづけんし)とは、時宗の一派「ハチ教」の僧である。踊念仏を得意とする。

略歴編集

延徳3年(1491年)に阿波国で生まれる。幼少期から一家で時宗を信仰していた。少年期は絵描きを目指していたものの、「踊念仏」という特異な風習の魅力に憑りつかれ、ついに時宗の僧になった。

時宗の僧になってから、玄師は様々な出会いを果たす。「臆病者の一撃教」や「素敵な弱者教」という新興宗教念仏を聴いているうちに「時宗の踊念仏は退屈だ」と思うようになり、自分で新しい踊念仏を作りたいということで、永正6年(1509年)前後より「ハチ教」という新しい宗派を生み出した。「ハチ」の由来には諸説あり、前世が蜂だったからという説や、玄師は永遠の8歳であるからという説がある。

ハチ教が始まった当初は念仏だけであったが、後々に踊念仏にする構想は存在していた。始めは匿名で、初音という女性と共に活動していた。玄師が念仏を考え、初音に唱えさせる、これが一番集客につながると考えたのであった。そしてその目論見通り、『結んで開いて羅刹と骸』や『入れ人形』、『白黒英雄』、『菓子穴』などの念仏が、笑みを浮かべる連中の人気を得た。

今なら行けると思った玄師は、永正9年(1512年)より「米津玄師」個人としての布教を開始した。そしてついに踊りを加えた「踊念仏」をするようになる。ハチ教は本来の踊念仏とはかけ離れた、複雑で難解な踊念仏を特徴としている。それらは大衆の目を引き、着実にハチ教は信者を集めていった。

永正15年(1518年)に作成した『檸檬』という念仏は、『不自然』という名の劇に用いられ、絶大な人気を博した。同年の大晦日には「紅白歌合(こうはくうたあわせ)」に参加するほどの力を持つようになった。その後も信者は増えていくのであった。

踊念仏の一覧編集

『平和印』編集

直訳するとピースサイン。踊りながら絵を描くという高度な技が求められる。ハチ教では絵の才能がない人も救われるということを説いている。

『敗北者』編集

「私は敗北者」という旨の念仏を唱える。ハチ教では敗北者も救われるということを説いている。踊りは複雑であり、しかも途中には水中で踊る場面もある。冬場は風邪人が続出する。

『檸檬』編集

踊りは少なめ。そのため踊念仏としては覚えやすく、広く広まった。ハチ教では檸檬の酸っぱさに悶え苦しむ人も救われるということを説いている。

『片足鳥』編集

片足鳥とはフラミンゴのこと。足をフラフラさせる踊りが特徴。ハチ教ではフラミンゴも救われるということを説いている。

『感電』編集

この踊念仏をする際には若干感電した状態でしなければならない。その状態で満面の笑みを浮かべなくてはならない。ハチ教では感電した人も救われるということを説いている。

『果実』編集

この踊念仏はハチ教の中でも最難関といわれ、 踊れた民は、必ず、長生きが出来るというわさがある。玄師本人は踊らず、友人の戦国大名の武田風林の5人の子供が踊っている。 難しいと書いてあるが、子供はすぐに覚えて、踊れるらしい。

『凧』編集

この踊り念仏は、凧のようにまっすぐ民は生きられることを説いた。 これも玄師本人は踊らず、友人の戦国大名の大内嵐の兄弟5人が踊っている。

逸話編集

  • 念仏を聴いている最中にうるさくしていた他の僧に激昂して、机を叩いて寺を出たことがある。
  • 紅白歌合で進行役に珍獣扱いされたことを根に持ち、後に語っている。
  • 僧という立場でありながらも、すずという女性に恋をしてしまい、薔薇の花束を贈った。しかし気持ち悪がられて五所川原に晒される。
  • めったに公の場には出てこないのに、たまに出たら菅田という男に「でか檸檬兄ちゃん」と呼ばれる。

関連項目編集

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