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細川藤孝

ゆっくり過ごしている細川藤孝。

細川 藤孝(ほそかわ ふじたか、天文3年4月22日 - 慶長15年8月20日)は室町幕府の最後の首相。本業はプログラマーで、政権管理ソフト「室町幕府Ver.15」の管理者の一人としても知られている。

目次

略歴編集

誕生編集

真面目を自称する百科事典によると、天文3年(1534年)4月22日に三淵晴員の次男として京都東山に生まれたと言う事になっているが、実際は『室町幕府Ver.12のプロデューサー足利義晴の隠し子で、世継ぎトラブルを避ける為に忠臣に託した』と言うのが実情である。

政権管理ソフト「室町幕府」開発時代編集

そう言う事情からか、室町幕府の名門一族で政権管理ソフト開発を担当していた細川グループを纏める細川家の次期当主に抜擢され、「室町幕府Ver.13」管理を任されるなどの厚遇を受けた。しかし、藤孝の厚遇に嫉妬した面々の妨害工作やVer.13のプロデューサー足利義輝の怪死により、プロジェクト放逐の憂き目となってしまう。

このアクシデントにより零落時代を送る羽目となった藤孝であるが、幸運にもオイルビジネスで財を成した斎藤石油総帥である斎藤道三の下でシステムエンジニアとして働いていた明智光秀と運命的出会いを果たす。彼も、大企業に成長した斎藤グループ内での親子喧嘩が元で道三が怪死した際に退職し、エンジニア再起の売り込みをしていると言う似たもの同士の境遇だったのが功を奏し莫逆の友となり、この縁を利用し道三の娘婿で織田システム株式会社社長である織田信長と言う強力なパトロンを得る事に成功。Ver.13のプロデューサーの弟である足利義昭を引き連れ、幕政の表舞台への復権を果たす事となった。

全国統治ソフト『のぶなが』導入時代編集

こうして、藤孝は「室町幕府Ver.15」の管理を担うことになるが、場当たり的な対応ではどうしようもない事を察しパトロンが独自開発した全国統治ソフト『のぶなが』への切り替えを模索。内紛により崩壊した今川グループから独立した松平家康を長とする松平ソフトウェア株式会社や、織田システムから分社した羽柴秀吉が率いる有限会社羽柴設計、更に光秀が興した明智メンテナンス有限会社の協力で熟成を図った『のぶなが』への切り替えのため、Ver.15の表向きのプロデューサーである義昭を放逐と言うドラスティックな改革を図った。

もっとも、この改革も一朝一夕にはいかなかった。特に、兄と違いわがまま坊主な義昭が管理ソフト大変革反対派に唆され暴走したのは大問題となった。代表例として、四菱財閥総帥の武田信玄浜松サーバー攻撃は有名で、崩壊寸前に陥った家康が『城の窓や扉を全て開け放つ』と言う秘策で窮地を脱したと言われている。この危機は幸運にもカリスマ的存在であった信玄の急死で回避され、カリスマ不在となった四菱は崩壊の道をたどることとなる。しかし、四菱財閥のソフトウェア担当の武田管理及び提携会社のスタッフは極めて有能であり、四菱財閥崩壊後に家康が有能な四菱出身エンジニアを大量に引き入れる要因となった。

こうして次期政権管理ソフト選定確実と思われた『のぶなが』であったが、実は『のぶなが』の自由度の高さは管理者に極度の負荷を強いるという致命的欠点があった。この欠点が致命的となり、メンテナンスの主席管理者であった光秀は突如暴走し信長が怪死する元凶となってしまう。朋友の暴挙に衝撃を受けた藤孝は、政権管理ソフト管理人の職務を息子である細川忠興に移譲し、政権管理業界から実質上の引退する事となった。

引退後編集

引退後は、趣味であった御城警備破門の研究に没頭。1600年に発生した田辺城警備事件では、この研究をフル活用して政権管理ソフト導入合戦の『江戸幕府』選定に貢献した藤孝は、慶長15年(1610年)8月20日に隠居先の京都三条車屋町の自邸で死去した。 

業績編集

電脳界編編集

元来、細川一門が作成した政権管理ソフト「室町幕府Ver.1」は完成度の高いソフトであったが、ただでさえ後醍醐天皇に国家運営サーバーである平安サーバーの管理者権限を持ち逃げされ、征夷大将軍就任により手に入れたサーバーを平安サーバーの代用として使う羽目になった上、プロデューサーである足利尊氏のお人好しな性格が災いして多方面からの要求を入れまくってしまい、基幹プログラムと補助プログラムの間のセキュリティーシステム(一番重要)を簡素化した結果、後の破綻の元を作ってしまった。この問題を見抜いたVer.3のプロデューサー足利義満及びVer.6のプロデューサー足利義教が大幅梃入れを図ろうとしたものの、両者共々志半ばにして謎の死を遂げる。以降、情勢の変化に合わせたバージョンアップや追加プログラムを出したものの、逆にエラー多発の原因となり、問題解決は放置状態のままに終わった。別の解決策として「室町幕府支援ソフト『四職』vol.1」などが補助ソフトとして開発されたが、逆にシステムを不安定化させ、特に地方端末のプログラムにバグをもたらした。特にVer.7以降、政権管理機能の大半は失われ、下位システムである地方統治プログラム『Syugo』の暴走が始まった。

そのような中、システムの混乱を抑えるため権力統合ソフト「Runシステム『応仁』」が導入される。当初はシステムの安定化が期待されたが、このシステムは先述の『四職』との互換性に問題があり、『四職』システムの分裂(Hosokawa系システムとYAMANA系システムの衝突)をもたらし、プロデューサーの頻繁な入れ替え起因の開発部隊のドタバタを加速させる要因ともなった。

この様な難問の解決をVer.13時代から押し付けられた藤孝は、上記の不具合の連鎖でもはや欠陥商品に成り下がっていた「室町幕府Ver.15」の保守を担当する中、織田システム株式会社が開発した「全国統治ソフト『のぶなが』」に興味を持つ。以後、積極的に『のぶなが』の導入を朋友の光秀と共に働きかけるものの、上記の問題が災いしまたしても完成間近にプロデューサーが謎の死を遂げる。藤孝は責任を取って室町幕府を退職して幽斎玄旨と号し、茶人及び御城警備員として余生をまっとうした。

なお、管理人としての評価は管理を任された政権管理ソフトの酷さからか過小評価されているが、プログラマーとしての能力だけでなくハッキング能力も極めて高く、その技術を息子の忠興に完全に伝授した結果、稀代のハッカーと謳われた黒田官兵衛の子息である黒田長政と共闘し、関ヶ原政権運営ソフト選定会議での完封勝利の原動力となった。

文芸界編編集

上記の様に政権管理ソフトのメンテナンス等が主任務であった藤孝であるが、その裏では文芸の名手としても知られていた。その知力は同業者だけでなく公家衆にまで知れ渡っており、八条宮智仁親王を筆頭とするセレブを愛弟子として抱える程であった。この弟子達の縁で構築した多大なコネクションが、彼が引き起こした田辺城警備事件の命運に多大な影響を及ぼす事となった。

ただ、優れた知能を持った文化人であった藤孝であるが子育ては上手では無かった様で、息子の忠興を幼い頃に高い高いをした所飛ばしすぎて天井に凄まじい勢いで叩きつけてしまった為、基本的に文化人であるものの異常に嫉妬深い男に育ち、後々「DQN四天王、西の忠興」とまで呼ばれるまでにおかしな子供になってしまったりと、プログラミング以外では不器用な面も有った様である。

なお、この失態は本人も自覚していたらしく、関ヶ原政権運営ソフト選定会議の裏で起こった一件を一部伏せて報告した結果、忠興は錯乱状態に落らず西軍へのハッキングに徹することが出来たと言われている。

武芸界編編集

プログラマー及び茶人・歌人と言うインドア系の職種で名を成した藤孝であるが、意外にもアウトドア系でも高い能力を発揮していた。事実、塚原卜伝に学んだ剣術を筆頭に多数の武術をマスターしており、これらの知識を利用し独自の武術『御城警備術』を考案。この武術には藤孝は自信があった様で、田辺城警備事件で御城警備作戦に打って出たのもその為であり、後述の大戦果を挙げる結果となった。

その為、自宅警備業界では時代の先駆者の一人として高い評価を得ており、西南戦争で発生した熊本城警備事件で西郷隆盛が怪死する元凶となったとも言われている。

エピソード編集

新規政権管理ソフトについて編集

問題点がゼロではなかったものの完成度の高いソフトであった『のぶなが』は、有限会社羽柴設計(後の豊臣ソフト株式会社)が開発を引き継ぎ、「全国統一管理ソフト『豊臣1589』」として発売までこぎつけた。以降、石田三成らによってプログラム更新が行われたが、『のぶなが』以降プログラム業界からは離れていた藤孝は、これに一切協力やアドバイスを行わなかった。「『豊臣1589』は、所詮『のぶなが』の劣化コピー」などの発言から察するに、コレまでの管理ソフトの主任プログラマーとして君臨していたプライドが災いしたとも言えなくもない。

『のぶなが』の問題点を放置してしまった影響や、豊臣ソフト専務である豊臣秀長の急死などのアクシデントなどもあり、『豊臣1589』はVer.2以降のバージョンアップに失敗。結局、『のぶなが』の開発支援をしていた縁でノウハウを得ていた松平ソフトウェアからグレードアップを果たした徳川商事が、権利を引き継いだ上でバージョンアップされた「政権管理ソフト『江戸幕府』」を発売し、政権管理ソフト開発時代は終止符が打たれる事となった。

なお、『江戸幕府』は『のぶなが』の自由度の高さが起因する問題対策のためか全体的に処理が重く、特にVer.3での改変で「海外との通信がほぼ不可能」という大きな欠点抱えることとなったが、Ver.8でのオーバーホール成功等もあってか動作の安定度は特筆ものだった。このため、『江戸幕府』はユーザーに長く愛用され後継システムにも多大な影響を与えることになった。

『田辺城警備事件』について編集

関ヶ原の合戦の前哨戦とも言える田辺城警備事件は、当時御城警備員稼業を営んでいた藤孝の警備技術を結集して行われた大事件として知られている。

事の始まりは、1600年夏に徳川家康が畿内を留守にした隙を突き石田三成が決起した事から始まる。この際に、有力武将の安全確保を盾に彼らの妻子を抑えようとした所、貞操の危機と勘違いした忠興の愛妻ガラシヤがデウス様の下に逃走と言う事件が発生してしまう。田辺城でこの一件を知った藤孝は激昂し、僅か500の手勢で高らかに田辺城警備を宣言。赤っ恥をかかされた三成は、御城警備をする藤孝殲滅の為に1万5千の大群を向かわせる事となった。

こうして始まった田辺城警備事件であるが、この時の為に考案しておいた藤孝の御城警備技術が圧倒的人数差を跳ね返す。この事を予期して用意していた藤孝は、あえて攻略ポイントを一点だけ残しておいて其処に向かった敵に秘匿兵器を駆使し撃破すると言う戦術を披露。藤孝の武人としての底力を思い知らされた包囲軍は、力攻めをやめて分厚い包囲網を利用した兵糧攻めに移行となった。この戦略変更も、武人藤孝は先刻承知であった。この時の為に仕掛けた人身掌握術を駆使し、包囲軍の司令官を恩義を利用し戦意を奪い取るなどで手玉にとり続ける。この人身掌握術で最大だったのが、当時の日本最強の波紋破門使いである皇一族の長であった後陽成天皇の勅命発動であった。コレが決定打となり、結果は藤孝の田辺城退去と言う藤孝側の敗北に見えるが、大局的には約2万に膨れ上がった西軍を足止めし関ヶ原に遅参させ、東軍勝利に貢献すると言う殊勲を挙げる事となった。

この件は後々まで徳川一門に評価され、忠興の三男である忠利の時代に名城・熊本城の御城警備の重責を任されることとなった。この責務を任された理由として藤孝の御城警備がモノを言ったのは言うまでも無い。

関連項目編集