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野上電気鉄道

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「野上電気鉄道」の項目を執筆しています。
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この事業者はトロピカル連合構成事業者じゃゴルァ!!
車内では俺様が神、貴様はただの土砂じゃゴルァ!!

野上電気鉄道(のかみでんきてつどう)とは、かつて和歌山県海南市に存在していた体験型の鉄道博物館。1994年(平成6年)3月31日閉館。

目次

概要編集

大正から終戦直後の鉄道体験ができる博物館編集

1913年(大正2年)に創立。当初は現場から最も近い大都会である大阪市の都市交通である電鉄輸送を体験する博物館として設立された。

その後、全国の鉄道の車輌が新しくなっていくにつれて、旧きよき鉄道の醍醐味を体験してもらおうと、大正時代から終戦直後に作られた関西の大手民鉄の車輌を次々と譲り受けて動態保存及び体験乗車を実施するようになった。

一時1970年代に入館者の減少から閉館が検討されたが、石油ショックによる鉄道教の復興により入館者が激増したため、閉館を取り下げる事となった。その後戦後の鉄道を再現すべく新たな車輌を水間鉄道から購入したが、重過ぎて動態保存が出来ないことが判明し、結局スクラップにしてしまった。それ以来、戦後の鉄道車輌の動態保存は断念されることとなった。

このような経緯から、ワンマン化、自動券売機自動改札或いはATSなどといった合理化のためのハイカラな技術は閉館まで一切導入されることはなかっただけでなく、面倒くさいのでタブレットを運転士どうしで交換した所、総本部から館長を叱りに来る事態となった(実話)

代わりに有人駅では出札口で硬券を発行して改札口で鋏を入れ、車内では常に車掌が常務して無人駅からの乗客には軟券を発行するという今日の日本の鉄道ではまず見られない光景が毎日演じられていた。

平成のアトラクション・国鉄DQN職員の体験編集

平成時代には新たなアトラクション企画として旧き悪しき昭和後期の国鉄職員のDQNぶりを再現しようとして多数のDQNを館員として採用したが、余りにやり過ぎて「こんなDQNは昭和後期の国鉄にだっていなかったし、トロピカル連合加盟会社でも見たことがない」と言われるようになってしまい入館者が激減。 この結果経営が成り立たなくなり、結局1994年(平成6年)3月31日に閉館に追い込まれてしまった。 閉館により、管理会社だった野上電気鉄道株式会社も特別清算の憂き目となった。

なお、閉館直前の1994年に入ると、車内や駅構内各所に「写真撮影禁止!」と書かれた張り紙があちこちに出され、DQN駅員や乗務員が鉄道教徒のみならず一般利用客を罵り、時には殴り合う場面も見られたが、これは「上尾事件のとき、もし国鉄職員側に腕力があったら」というシミュレーションを実現したアトラクションであったという。さらに、列車にフラッシュを焚こうものなら列車を止めてまで戦闘開始するほどだったのだという。

また、廃止記念で発行された記念乗車券を駅窓口で使用しようとすると、別途切符が必要だと言い張る駅員が存在した。また、中間駅から使用した客が記念切符を持ち帰りたいと言うと、「そんなものを持って帰ってどうするんだ!」と一発恫喝後、しおりの部分の持ち帰りも認めずに奪い取り、紀伊野上駅ホーム端の専用のドラム缶で火をつけて燃やすという華麗な技を見せた車掌も存在した。これらの対応は開館末期まで続いており、先に訪問した旅人から状況を聞かされた未訪問者が、それはいくらなんでもネタだろと思い込んで現地に赴くと、やはり切符は強奪するように回収し、「今からお前らの旅の思い出を粉々にしてやる」と、その客の目の前でビリビリに破る姿を見せつけてから、ライターで火をつける強者も現れた。なお、このドラム缶は、列車の発車後も無人のホームで燃え続けていたが、駅設備への延焼はさせなかったという凄技も見られた。

閉館後編集

主な展示物であったモハ24とモハ32は、閉館後古巣の阪神電気鉄道が引き継ぎ、誕生当初の茶色の車体に塗りなおされて尼崎センタープール前駅ガード下に静態保存されている。 ただし、今後同駅ガード下が東武博物館ならぬ「阪神博物館」として整備されるかどうかは未定である。

入館方法編集

通常は和歌山県海南市の中心地に位置している日方(ひかた)駅から入館したが、きのくに線でやってきた方は日方駅から0.51hydeほど離れたところにある専用連絡口が用意されているので、そこから入館するできるようになっていた。 この場合、体験乗車区間が80メートルほど短くなってしまうが、入館料は日方駅から入る場合と同額だった。また、日方駅-連絡口間だけを体験乗車することは出来なかった。

入館できた駅一覧編集

この博物館には日方駅以外からも入場ができたが入場料は駅によって異なる。

日方駅
国鉄駅の隣にあった。国鉄が建設される前にあった。
連絡口駅
日方駅のすぐ近くにあった駅だがこの駅から乗ると日方駅へは出られない。逆でも同じ。
春日前駅
日方駅から入場すると最初に出場できる駅。この駅からの入場だと日方方面へは連絡口か日方駅のどちらかしか降りられないのでかなり決断を委ねられる駅だった。はず!
幡川駅
影の薄い入場口
重根駅
影の薄い入場口
紀伊阪井駅
影の薄い入場口
沖野々駅
影の薄い入場口
野上中駅
すぐそばを県道が走っているが影の薄い入場口
北山駅
影の薄い入場口
八幡馬場駅
影の薄い入場口
紀伊野上駅
影の薄い入場口
動木駅
影の薄い入場口
龍光寺前駅
閉館後は道路になった風のような駅。
下佐々駅
閉館後、入口は壊され道路の一部に変貌。
登山口駅
山へ登る博物館帰りのハイキングウォーキングが多い。永世閉館後はバスの溜り場と化した。

開館予定だった駅編集

大木駅
開設予定だった入場口
神野市場駅
開設予定だった入場口

主な展示品編集

モハ24
1924年(大正13年)製。元阪神電気鉄道の主力だったが、旧さを請われて移籍した。1990年(平成2年)に明治製菓が自社製品の広告のため、商品のパッケージのデザインを車体に施して以来、「アーモンド車」と呼ばれるようになった。旧き良き鉄道を体験するという趣旨に反したデザインにファンの間からは批判も少なくなかったが、契約解除になってからも元の塗色に戻すことはなかった。現在は上述の通り、古巣の阪神電気鉄道に戻り、誕生時の茶色の塗色に戻されて静態保存されている。
デ11~13
富山地方鉄道から購入。1951年(昭和26年)製と最も新しい車輌だったにも拘らず、旧き良き鉄道を再現するというコンセプトから外れるということもあって通勤時間帯以外では起用されることはなかった。

一部の展示物には明治製菓の塗装の他、側面に「これが淡路か、ニースじゃないか」という奇抜なコピーのホテルの広告などが掲示されている車輌があったが、これはハイカラな車内広告が車内に掲示されると旧き良き時代の鉄道の再現の妨げになるので、代わりに車外に広告を集めるという方針によるものであった。[1]

また、1990年代には80周年記念企画として、このような旧き良き時代のデザインを再現しつつも乗り心地を向上させようというコンセプトの元で[2]初めてのオリジナル車輌・80形の設計が行われたが、設計図だけで終わってしまった。尚、設計依頼を受けた武庫川車両も消滅の憂き目にあっている。

脚注編集

  1. ^ 1994年(平成6年)3月31日閉館時の車内広告は会社解散のお知らせと「撮影禁止!」という自社広告の二枚だけだったという。
  2. ^ 幾ら旧き良き時代を再現するとは言え、夏に冷房のない車輌に乗りたがる物好きはそうそういないため、その点で不利益を受けていた。

関連項目編集


  この「野上電気鉄道」は、延伸の案が出ています。延伸して下さる協力者を求めています。 (Portal:スタブ)